源泉掛け流し八湯めぐりと炉端料理が人気の旅館 塩原温泉 湯守田中屋の歴史

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当旅館について

湯守田中屋の歴史湯守田中屋の歴史

創業明治17年の歴史ある温泉宿

創業明治17年の歴史ある温泉宿

明治17年頃の当館パンフレット

野州塩原大網温泉効能

野州塩原大網温泉効能

明治25年のパンフレットには、こう記されています。

「今般弊所温泉ニ改良致諸病ニ効能アル事ヲ實行試検候間各位入浴治療、アラン事ヲ望ム若シ湯治ノ効ナキ以上ハ入浴中ノ諸費ハ勿論温泉諸雑費等申シ受ケズ徃復ノ旅費相償ヒ可申候依而爲御試験御入浴アラン事ヲ奉希望候以上」

「効き目あらずばお宿代返金す」が今から110年前のうたい文句でありました。その当時と変わりなく湧き出でる温泉がここにはございます。

100年続いた湯治館

100年続いた湯治館

三百段下に木造四階建ての湯治館があり、多くの方にお越し頂いておりましたが、その館は昭和60年に取り壊し、その跡地に、女性専用美人湯、混浴仙郷湯を設け、現在でも三大渓流露天風呂として愛されております。

  • 明治時代の湯治旅館

    明治時代の湯治旅館

  • 昭和初期の大網温泉

    昭和初期の大網温泉

  • 昭和19年 疎開してきた人々でにぎわう大網温泉

    昭和19年 疎開してきた人々で
    にぎわう大網温泉

塩渓紀勝の文

塩渓紀勝の文

三冬(さんとう)水涸(か)れて落ちず、春末に至って始めて濺々(さんさん)の音を聞く。大網(おおあみ)に抵る。 山を負い崖に倚(よ)る。二戸村(にこむら)を成す。一は茶店(ちゃてん)、一は旅亭(りょてい)なり。小憩(しょうけい)して茶を呼ぶ。 山渓(さんけい)及ち白湯を供す。椀面(わんめん)に紅桃、黄菊の花を泛(うか)ぶ。香気舌に沁(し)む。此の間に又小瀑ありこれ字様をなす、九回(きゅうかい)と曰う。 宛転(えんてん)橋を渡り左の険阪(けんばん)を下ること二百武(ほ)、羊腸(ようちょう)蹊(みち)をなす。僅かにき歩を容るるのみ。阪窮(さかきわま)って温泉あり。 巌石(がんせき)おう窪(あ)の処に出ず、右は則ち断巌屹立(だんがいきつりつ)、向背差互(こうはいさご)、瀑あってこれに懸る、落ちて潭(たん)となる。深さ三丈許(ばか)り、紺碧(こんぺき)人を染(そ)む。潭溢(あふ)れて澗(かん)となり、澗廻(めぐ)って灘(なだ)となる。 危石磊(きせきらい)ら、奔湍激射(ほんたんげきしゃ)、竜蛇(りゅうだ)躍(おど)らんと欲し腥(せい)ひょう衣(ころも)に生(しょう)ず。澗中に多く可慈加(かじか)石斑魚(也毛女{やまめ})香魚の属を産す。流れに溯いて游泳す、此の潭に抵(いた)って止む。 因(ちな)みに魚止(うおとめ)の瀑(たき)と曰う。近時土人(とじん)謀(はか)って魚梯(ぎょてい)を設くと云う。上游に又瀑あり、曰く潜竜(旧区々竜{くくりゅう}瀑)形似たるを以って名を得たり。

明治21年4月17日 〜大網のくだり抜粋〜 奥蘭田先生原著 河瀬憲宗禅師訳

大網温泉の歴史

大網温泉の歴史

十一湯から成り立つ「塩原温泉郷」、その一湯目がこの「大網温泉」でございます。
その昔、「大網」をしかけたように溯上する魚が、捕れたという「魚止めの滝」があることから、温泉の地名となりました。

変わらぬ景色に佇む「いで湯」

変わらぬ景色に佇む「いで湯」

野天風呂は、三百段の石段を下ったところ、箒川の水しぶきがかかる近さに、仙郷湯と、石門(いわま)湯、河原湯と、女性専用の美人湯がございます。内湯は館内最上階で寝湯、泡沫湯、サウナ等、温泉三昧が楽しめます。新設の渓流檜露天風呂は男女ともひとつずつあり、こちらは貸切(有料)もでき、大変人気です。

「湯守」田中三郎よりご挨拶

湯守田中屋 代表取締役 田中三郎
湯守田中屋 代表取締役 田中三郎

湯守田中屋は「源泉主義」を掲げ、より皆様に愛される湯を作り上げて参ります。

その昔、「効き目非ずば金返金す」がうたい文句のこの宿は湯治のお客様で賑わいを見せ、薬いらずの湯として親しまれておりました。

春は山の岩肌に咲く薄紅色の八汐つつじ。夏は新緑の渓谷を木霊するひぐらしの声。10月下旬からの秋の彩りは見る人を皆、うならせるほどの見事さでございます。冬の雪見風呂に至るまで、四季の移ろいをご実感いただけます。

この変わらぬ景色に佇む、いで湯の里、田中屋。温泉に浸りながら見る周りの景色は人々の心をよりほぐしてくれることでしょう。

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